三日坊主三段活用

140字以上の感想を書きたい

プリンタニア・ニッポン 59話感想

感想の前の感想

プリンタニア・ニッポンを深く掘り下げるきっかけはハリスとはいったいどんな存在なのだろう?という疑問だった。

2巻収録のおまけ2の瀬田8に燃やされたというのもあるけれど、作品としての興味の軸はハリスとはオリジナルとはいったい何なのだろう?だった。

2巻の好きなコマを選ぶキャンペーンの時、私は「人を救うのが命題のようなもの」ということが語られているシーンを切り取った。

おそらく人ではない何か、人を助けていた何か、猫が起きるのを待っている誰か。

その人はいったいどんな存在だったのだろう?

その疑問に対する答えが次の回で明かされるかもしれない。

少し落ち着いたので多少は冷静な文章になっているはず。

ハリスについて情報が明かされることをずっと待っていたけれど、

この作品はあくまでプリンタニアがメインであり、

この世界を今生きている人間たちの話であり、

舞台装置の一部である猫やハリスの背景は語られることはないだろう、

ともずっと思っていた。

なので3巻でSFを前面に押し出した話展開され、4巻分の現在の話ではハリスとマリヤに対する言及や過去の話が始まったことに毎回のように動揺していた。

感想を書くことをずいぶんとさぼってしまっていたので、当時の自分がどう考えていたのかは分からないが毎回のように気が狂うといっていたはず。

60話に関してはこれがきっと最後になるかもしれないという予感がある。

私が彼はいったいどんな人物だったのだろうと夢想するのはこれで最後かもしれない。

ハリス、マリヤ、猫の関係はプリンタニアの世界の住人達には周知の事実で、それらが改めて話題にでることもない。佐藤目線の物語として進行していく以上、誰かが問わなければ疑問・話題として浮上することがない。

たまに言及されるハリス、マリヤ、猫の断片的な情報を組み合わせ、この世界を作った意図やこの世界に作られた人間たちから成り立ちや望んだこと、過去を夢想することももしかしたらなくなるのかもしれない。

現時点では、ハリスはずっと寝ていてどんな言葉を話したのかもわからない、マリヤは姿すら出てこずハリスが大切にしていたらしいことしかわからない、猫はハリスを保管し続け旧人類の残滓を抱えて奥へとひきこもっていることしかわからない。

その他、細々と彼らに対する言及はあるが上げだすとなかなか終わりが見えない作業になる。また4巻分の内容では過去の巻よりも多めに言及があったように思う。

正確にカウントを取っていない自分に対して絶望するが、これは4巻が発売されたあとに本気で読み込もうと思う。

3巻のLINE配信のありがたさが身に染みて感じた4巻だった。次こそは単話配信を頑張っていただきたい。

読み返す方法がないのはとてもつらく、好きな時に参照できない以上真面目に掘り下げるのをためらってしまう。

60話ではほぼ間違いなく過去の話の掘り下げが行われる。

答えが出てしまう。

答えが出てしまった時私はいったい何を思うのだろう。答えを得たから満足するのだろうか。それとももっと知りたくなる?

何がわかるのか分からないが、少なくとも今まで通りではいられないだろう。

話数としてはそろそろ4巻の締めに入るか、もしくは今回の話が4巻の締めとなるか。

1年に1巻ペースで刊行される都合上、59話が最後の話だった場合私は1年間苦しみ続けることになるため、ぜひとも凪の劇の終わりまで収録してほしいと心の底から切望している。ほんとうに命とモチベーションに関わるので多少厚くなって値段が上がっても構わないので4巻にまとめてほしい。

 

ハリスという幻想について

ハリスという存在は常に誰かの言葉で表現されていた。

直接的に彼が表現されたのはデコイを作るために塩野と佐藤すあま達が地下へ降りて行った時だけ、それ以外は常に誰かから見たハリスが描かれていた。

どのような言葉で表現されていたのか一つ一つ上げていきたいが、それだけで無限に文字数が増え続けるため省略を行う。

ハリスを語るとき誰かはその言葉に願望をのせている。ハリスという共通のフォーマット、概念そういったものがあの世界には存在している。

ハリス自身が何を思い、何を考え、どのように行動し、何を願ったかといったことは一切でてこない。

今判明している情報はハリスを外部から観測した結果と感情が込められたもので、いまだにハリス自身の言葉はどこにも存在していない。

客観的事実に近い内容としては塩野の発言による「オリジナルは人を助けるのが命題のようなもの」、猫の発言による守りという表現からハリスは人を守護していたことをうかがえるがそれ以上の情報は存在しない。

あの世界の機械達の行動や発言を鑑みるに、ハリスが物言わぬただの機械であったとは思えず、そうでなかったからこそ現行人類達に幅広く支持される(彼に対する人類の感情をうまく表現することができない)のだろうと思う。

全てに素晴らしいと称される、中身が見えない何か。がハリスだ。

素晴らしいと言われている、断片的に受け取る情報から素晴らしいという文脈に沿ってハリスという幻想を組み立てる。自分にとって都合のいいように存在を定義する。直接的には知らないが、知っていることは素晴らしいことばかりだ。

例え、伏せられていることがあったとしても、それを実感として知ることはない。知ったとしてもそれが記憶に結びつくことはない。

といった状態が現在軸の現行人類にとってのハリスだと思われる。

そしてそれが私が見ているハリスでもある。

今までは幻想の自分にとって最高だと思う解釈、想像、幻想でハリスという存在の内側を埋めていたが、

60話でハリスの中身が明かされたのなら、それが自分にとって都合の悪いものだったらどうなるのだろうと考えてしまうことが恐ろしく感じる。

少なくともハリス、マリヤ、猫の過去の話はされるのだろうけれど、それがどのような表現で届けられるのかはまだ分からない。

3週間後に何がわかるのかはまだ分からない。それが待ち遠しく恐ろしくもある。

 

59話の感想

ハリスについての感情をひとまず並べていったら2千文字をオーバーしました。ここからが本題です。時間も盛大に飛びました。

1P目

矢浦君が最高にかわいい。よみよみの擬音が天才。

棒読みテンプレート感謝感想文。身に覚えがありすぎてちょっとつらさを感じてしまった。わーっとは書くことができるけれど畏まった感謝の言葉は難しい。

苦手な子向けのそういったテンプレートがあったんだろうな。

あっちを見るんですよのコンサルのサポートする姿勢も愛おしく、佐藤も身に覚えがある言葉だなと思っていそうなところもとても好きだ。矢浦君の猫服カーディガンは自分で選んだのだろうか?

 

2P

何をいうか迷ってから、ちょっとは楽しかった?という佐藤の言葉が最高に愛おしい。愛おしいは何度言ってもいいレギュレーションです。

ちょっとはという言葉から不安と自分はうまくできただろうかという予防線を、

楽しかった?という言葉からは矢浦君を楽しませたい、知りたいと思っていることを教えてあげたい、スクールの外は楽しいのだと思ってもらえただろうか?という気持ちが見えるようでとても好き。

それに元気よくうん!!と返事をする矢浦君の笑顔がとてもまぶしく、佐藤が聞きたかったのはこの返事だったのだな、この一言で佐藤は安心できたのだなとわかって本当に大好きになってしまう。ほっとしました、で佐藤も不安でどうしたらいいのかわからなかったのだろうなというのがわかる。

自室で佐藤が大きな人らしくないだらけた姿勢で弛緩しているのがとても佐藤で好きだ。普段の自分ならしない・選ばないことを一生懸命に頑張って前に進もうとする姿にやっぱり佐藤はこの作品の主人公なのだなと実感する。

佐藤の真似をしておしりをあげているすあまがあまりにもかわいい。ありがとう。

コンサルが旗を持ってとてもがんばりましたとほめているのがとても好き。

喜びが抑えられていない、とにかく形にしたい、私の大好きな担当人類を褒めたい!という感情が前面に出ている。コンサルの感情も機能だったのだとしても、それを機能として組み込んだこと、それをコミュニケーションとして前面にだしていることそれが本当に愛おしいと思う。

佐藤のコンサルももしかしたらほめ方の模索をしているのかもしれない。

お祝いにケーキの概念があることが知れたのもいいし、胃もたれするからと断る佐藤があまりにも佐藤で本当に…コミュニケーション…。

3~5P

画面のすべてが可愛い。プリンタニアが最高にかわいい。額に入れて飾りたい。

一コマ目のもなかの毛に夢中になっているプリンタニアが可愛く、メレンゲに登頂したプリンタニアもかわいすぎる。

瀬田くんの頭に乗ってぺしぺししているのも足を振って水を切っているのも全てがかわいい。この漫画はプリンタニア・ニッポンなんだ…。

情報としては、

瀬田は個人で凪の劇へ向かう。

佐藤・塩野はそれぞれ矢浦・弓立から招待状をもらい受けて参加をする。

案内人以外にスクール外の接点があるのか少し疑問が浮かぶ。

佐藤達は全員凪の劇の話を共通認識として行っている。

向井・遠野世代でも同じように劇の話を行っていることから、スクールでは毎年凪の劇を行っていることがわかる。

凪の劇ではスクール生が舞台を作り上げ、それをスクールを卒業した人類達が見る。

いつから誰が何のために始めたのかはまだ分からない。

役は、

・ハリス(尊敬の対象)

・猫

・マリヤ

・人類(重要ではない役?)

・動物(にぎやかし)

で構成される。

彼岸で実施されるため舞台は、

スクール生が舞台を造り、アバター調整を行う。

観客席もスクール生による作成かもしれない。

裏方であることはこの世界でも地味寄りの作業のようだ。

猫も人間が演じる、マリヤもハリスも演じられる。

最後の年と言っていることから、一つの学年ではなくスクール全体で取り組む行事だと想像することができる。

瀬田は人類の名前を憶えておらずセリフのある役をもらったと言っている。瀬田もハリスの役を演じたかったのだろうか。ハリスに対して信仰のような憧れのような感情をもっていることがわかるからできるならやりたかったのかもしれない。

塩野がそれぞれに何をした?と質問をしていることから凪の劇を行う際には必ず役割が与えられているのかもしれない。

そのなかでハリスをやりましたとどやっとうれしそうな顔をしている遠野さんが非常にかわいくてとてもいい。手元のけんかしているプリンタニアがものすごくかわいい。口元のしわとかもかわいすぎるのでは?

塩野や瀬田の反応からもハリスは競争率が高く人気の役であることがうかがえる。その人がハリスを演じることをみんなが納得することでその役を得ることができるのかもしれない。

そうだとしたら瀬田はハリスを演じるには満たない人類であると判断されたともいえる。ハリスにすがって(配信元ネタ)髪を伸ばしている瀬田が…周りの人類達で髪が長い人たちはほとんどいない。そのなかで髪を伸ばし続けている瀬田がハリスに対しての感情がすくないはずもなく、といつも考えてしまう。

それでも遠野に対してあなたが嬉しそうで私もうれしいと賞賛できる瀬田は素晴らしい人だ。大好きすぎる。

ハリスという役を演じることが自慢になる、誰もがすごいとほめることである、そういった共通の認識がそこにある。ハリスは立派であるという認識がある証拠なのだろう。

理想のハリスが自分の演技力では表現できないと呻く小遠野は本当に見たいので4巻のおまけなどに収録されないだろうか。

ここで理想のハリスと表現されている。

それは遠野にとってハリスとはこのような存在であるということを表現すること、演じることでハリスを表現する。

演じるということは、その役を理解するということでもある。

役を理解し、解釈し、その人にとっての正解を演じる。

戯曲は同じだとしても、そこから何をくみ取りどう演じるかは役者によって変化していく。

特に凪の劇は毎年同じ劇を繰り返している様子のため、私ならこうする、私ならこう演じるといった考えも出てくるだろう。

毎年同じシナリオだったとしても、舞台、演者が変われば変化が起きる。

世代が変わり、ハリスやマリヤのことを直接知らない世代になったならそれはもっと大きくなるだろう。

正確な記録を取ることも簡単だろうあの世界で、映像を見るのではなく演じることの意味とはなんだろう。やはり解釈し理解するという工程が重要なのかもしれない。

事実を並べることしかできない自分の理解の浅さには落ち込むが、アウトプットを繰り返さなければ理解も深まらないため継続を行う。

凪の劇はすべての世代で共通の話題となっている、大きな人たちのそれぞれの過去の話。そしてプリンタニアの過去の話。ダブルミーニング

ハリス達の過去の話がどのような形であらわされるのかは分からない、演技というものを抜いた過去の回想だろうか、あくまで劇という形式に則った演出だろうか、それともそれが混ざったものなのか?

原液としてのハリスやマリヤ達が出てきたのならばそれはかつてない情報が与えられることになり情報過多でパンクするだろう。

劇のフォーマットに乗せられるならば、ハリスという原液を現行人類の解釈で割ったものになる。割ったというが余計に劇薬になる予感しかない。

映像ではなく劇という形をとることに関してはもう少し練っていきたい。

彼岸で凪の劇は行われる。彼岸には大きな猫がいる。

大きな猫に忘れてはいないと伝える目的はあったりするだろうか。

大きな猫の慰めの一つの可能性はないだろうか。それも60話で明かされるのかどうなのか。

開演までしばらくお待ちください、凪の劇は間もなく始まりますのドキドキする感じがとてもいい。

無重力設定かなの言葉から重力がないという概念は存在していることがわかる。

現代のような基本的な科学知識までは伏せられていないのだろうか、技術的なことがどこまで猫と人類で共有されているのか分からない部分は多い。

宇宙という概念はあるのだろうが、上を宇宙として理解しているような様子があまり見られない。空から上には行けないと思っているのかもしれないが、それでは無重力の概念と違和感を感じる。何でもありでも発想のもとというのは存在するので彼岸のみで扱える概念なのかもしれない。

情報の整理が必要な部分だと思われる。

永淵が矢浦から招待状をもらっているのがとてもかわいい。怖い目にあったのに招待状を渡す矢浦君。過去の人に今の人の凪の劇を見てもらう、永淵はハリスが動いていた時を知っているのだろうか。

永淵の佐藤にちょっかいかけていくところ、厄介なおじいちゃんが孫をかわいがる仕草のように見えていい。

佐藤をよく叫ばせているし、永淵も佐藤にびっくりさせられている。

永淵は人間らしい振る舞いをどこかに置いてきてしまったかのようにみえるが、そのじつとても人間らしい部分もある。人間の機能は失ったが、やはり人間である。

永淵は長く活動していて、他人に自分の言葉が届かないほうのことが多いことを知っている、だから佐藤が永淵の言葉で案内人をしたことに驚いたのかもしれない。

永淵の言葉は他人に向けているようで自分に言い聞かせたり確かめたりするような部分が多いように見える。

人間であるが人間から外れているもの。人間が人間でなくなるということを知っている人間。

「真理は我らを自由にする 知ることで広がることもあるし 省みることもできる」

うしろのすあまとそらまめで中和されそうになっているけれど(かわいい)重要な話をしている。

真理とはこの場合なにを指すのか、非開示にされている過去のことだろうか?開示された情報の過去を知ることで進む道が広がることもあり、過去を反省することもできる?

けれどその開示された情報に対し囚われすぎないように、昔の話なのだからもうどうしようもないことで過去は変えることができない、と永淵はいう。

大きな猫の信頼を得ること、裏切らないことで情報は開示される。

その情報(真理・事実・過去)は知ることで道を開くことができる、選択を増やすことができる。だけれどそれに囚われてしまうこともある。

忠告は永淵がそうだからなのだろうか、それとも大きな猫が?

ここで昔の話ですべては終わった話であり過ぎ去ったことは何も変えられないのだと提示したうえで、凪の劇が開演される。

この流れで明るい話になることはきっとないだろうし、この世界の成り立ちや根底の部分に触れるのだろうと想像ができる。

けれど永淵がいう知らなくてもいいような内容が情報非開示の内容だとすれば、凪の劇ではいったい何が行われるのだろう。それは事実なのか?

最後のコマが下へ向けてグラデーションが暗くなっているのは幕が上がる前の重い空気を思わせる。いったい何が始まるのだろう。

 

全体の流れとしては、佐藤の案内人の終了、終了後に凪の劇へとつながる。

凪の劇はスクールを通った人類はすべて体験しており、役割のない人間はいなかったということがうかがえる。何人で劇を運営しているのかは不明だが、少なくとも役者+裏方分の人数はいたと思われる。

そして凪の劇の観劇前につながり、案内人のきっかけになった永淵からおどろかれ、けれどそればかりにとらわれないように過去は変えられないことなのだからと忠告を受ける。

驚いた表情の永淵が素の表情をしていてとても好きだ、どうしようもないことは誰に向けて言っていたのだろう。やはり自分に向けて話しているような部分があるようにも思う。

総合すると今回も最高だった。うまく感想は書けないし理解度も低い、感情の理解は全然できていない。それでも好きだなと思うのでプリンタニアは面白いんだ…。

 

感想というよりだらだらと書き連ねただけだが、3週間後にすべてが吹き飛ぶ可能性を考えたら書かずにはいられなかった。

また思いついたなら編集をしようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

善き人を見てきた

善き人の感想

 

自分の考えなども織り込みながら書いているため、純粋な善き人の感想としては不純物が多いですご了承ください。

 

元のタイトルはGOOD。邦題では「善き人」というタイトルがつけられている。

NTLiveHOMEでは未配信。残念。

映画版は存在しているが配信はないのでTSUTAYAなどでレンタルをする必要がある。ちなみにこちらもタイトルは「善き人」。

戯曲は存在しているがAmazonでペーパーバック版は品切れ。Kindle版なら購入は可能。

2023/10/27から京都などで見ることは可能。

パンフレットは完売。グッド・オーメンズファンも多く来ていたらしい。

上映期間短めで客席数も少ない映画で訪れた人が大体買うような状況ならさもありなん…。

私もグッド・オーメンズ経由でテナントさんを知りました。クロウリー良い。

フォロワー経由でNTlive作品を詳細されたまに見に行く者なのだけれど、どの作品も質が高くてとてもよい。今回も安定して面白かった。

ちょっと前にもスリル・ミーも見ていて今年は観劇が多めかもしれない。さんきゅーふぉろわーいつもありがとう。

私は役者さんが演じるキャラクターが好きで役者さんはあくまで表現者であり、混合するものではないと思っている。というよりも演じているキャラクターをそのまま受け取っているから混合しようがないのかもしれない。演じ分けをそのまま受け取っている。

今回もテナントさんというよりも彼の演じる作品を見たという感覚ではある。

善き人の主人公は自分を取り巻く流れに逆らうことができず、英雄にもなれず、自分の身を守るために信条を曲げ、それでも自分は善良であると信じたいただのそこにいただけの人間というキャラクター。

事前にクロウリーというキャラクターが頭の中に存在していたため、今回の演技を見て「あぁ、確かに彼はクロウリーという魅力的なキャラクターを演じていたのだな」ということが腑に落ちた。人が演じているのを見ても、人が演じているのではなくそこにキャラクターがいるといった風に受け取ってしまうのが原因なのかもしれない。人が演じているというよりはそこに人間を使って映像を描いているという感覚。

(さっきまでU-NEXTでドクター・フーをちょっと見たのだけれど若くてちょっと驚いた)

人外を演じていた彼がまさに人間らしい人間を演じているのを見れたのは面白い経験になった。普段は演劇もドラマも見ないのでそういった経験がとても薄く、見たものを解釈するのも苦手なのが残念だ。今回の善き人も見慣れた人が見たならきっと深く楽しめたのだろうと思うと惜しい気持ちになる。

 

本題の善き人の感想としては。メンタルにぐさぐさささってとてもつらかった。

今のこの時勢にこの作品を流す意味についてずっとこねていた。

一番心に刺さったのは自分が大切で他のものは優先度が低くなるのところ。心に刺さるのはつまりやましいと感じている部分に投げかけられる言葉だからだ。

自分が大切、自分の生活が大切、自分の地位が大切、自分の居場所が大切、自分の安全が大切、自分のことを守りたいという気持ち。間違いじゃないけれど、そうすることで何かを間違いなく選んで捨てて行っている。自分のことを守るだけの人間は善き人ではない。

けれど自分を危険にさらしてまで誰かを助けることができる人はそうそうおらず、それができないのは平凡で普通の人だ。

人の選択は細かいことから大きなことまで、その時は些細な選択でもそれが後から取り返しのつかない大きなきっかけに代わることもある。例えば選挙で選んだ一票とか。

けれどそれを選んだのは確かに私、その道に進むことを選んだのも確かに私なのだと…その事実の重さを突き付けてくるような話だった…。

もちろんこれは一要素でしかなく、様々な面で考えさせられることが多い作品だった。

 

時系列は気にせずに感想を書いていく。

 

最後の収容所へ行くシーンで史実の最低最悪のあそこだと気が付いてしまい感情がめちゃくちゃになってしまった。行きつくところはそこである。

頭の中で鳴っていた音楽は現実として目の前に現れた。音楽を鳴らしているのは幻ではなく、目の前にいる囚人服を着た現実の人間だと突き付けて、目を背けるなと言っている。

平凡で普通の男性だった彼がこの場所に行きついてしまった。ただ流されていく、現実から目を背け進んでいく、自分のためにと進んでいった結果がこれなのだと…。

妻のまやかしの言葉も届かず、幻想の音楽は現実のバンドにとって代わって彼はもう現実から逃げられず、現実のバンドだと二回言う。本当に重い結末だった…。

大学教授で文学を教えていた平凡な彼から、変質してしまいナチスの親衛隊として後戻りのできない暗いところまで下りて行ってしまう物語ではあるがそこにたどり着くまでに分かりやすい大きな選択というものがなかったのが本当に恐ろしい。その時は後でどうとでもなるよ戻れるよと思いながら選択をしたのに、進めば進むほど後には戻れず振り返ったらかつての日常ははるか遠くにある。まるで現代の様で恐ろしかった。

 

制服に関してはあえて似合わないような着こなしと仕立てをしていたように思う。服に着られている少しだけ大きく、重たい服の印象があった。

着替えのシーンではシャツの段階では気が付かず、ズボンの形を見てからあれだと気が付き、磨き上げられたブーツを履いた当たりで頭を抱えたくなった。

カーテンコールの前に一瞬で着替えて出てきたのには驚いたけれど、この作品がつたえたかったことを考えるとそうなるだろうなと納得した。でもだいぶ早着替えだった…あれ脱ぐのだけでも大変だろうに…。

 

アンは彼を楽なほうへと常に誘導していた。

私たちは何をしたって何が起きたって善き人よは本当に…思考停止と甘い言葉で自分は善なのだと思わせるそんな言葉だった。物事をただの警備、ただの護送をするだけと相対的に私たちは良いことをしているのだとまやかしの言葉を吐いて自分の安寧を手に入れる。いったいそれのどこが善だというのだろう。

主人公はアンと出会い恋に落ち、母と家族を捨て森の中で友人から奪い取った家で暮らす。

けれど一つ一つの選択はばらばらのタイミングで幾ばくかの罪悪感を伴う選択でしかなかった。

楽に流れるのはあまりにも人間らしく、その家で自分よりほかは優先度が下がるのだと語りかけてくるのは本当に胸に刺さってつらかった。

 

水晶の夜のシーンで暗転し、悲鳴と爆音、銃声がびりびりと震えるくらいの重低音で鳴ったのが本当に恐ろしかった。これは今現実で起きている、起きたことで遠い昔のことではなく、もしかしたら明日私も体験することになるかもしれないのだとそんな予感と空想で震えそうになった。

初めは一時的なものだ、考えすぎだ、大丈夫だと友人に話すような気軽さだったのに、こんな場所にたどり着いてしまった。

暗転が終わり呆然と立ち尽くすジョンのそばへモーリスが近づいてきたとき、これは彼の音楽のように幻の存在ではないだろうかと疑った。

あの状況で友人のもとに本当に表れたのか、それともジョンの罪悪感が見せた幻覚なのか。どちらだったのかは結局はっきりしなかったがどちらであるかは重要ではないのかもしれない。

隣に座っているモーリスが涙を流しているというのに彼は自分は悪くないのだと支離滅裂な自己擁護を始める。ユダヤ人こそが正当なのだと訴えるべきだったのだと責任転嫁をする。自分は悪くない、こうなってしまった状況になってしまったのが悪いと現実から目を背けた。

書き出せば書き出すほど善き人とは何か?を考えさせられる。

 

ジョンが焚書を行ったシーンで自分の本を残せるならばと選択するのも最悪だった。

多くの人が知らない本、だから自分の手元に残す本以外は燃やしたっていい。それで自分の地位と安全は保障されるのだ。そういった保身と自分の欲を優先した結果が焚書になる。

過ぎ去りし日々というフランスの本を過ぎ去りし日々なんて何の役のもたたないと火に投げ込む姿は本当に愚かで、救いようがない。けれど否定したら本ではなく自分が日に投げ込まれるとしたら私は否定できるだろうか?とも考える。命よりは軽い本だと思うのはとても苦しく感じる。

過去の文化や知性を否定し焚書を行った時点で大学教授としての彼は死んでいたのかもしれない。

軍服に着替えるシーンではジョンは当たり前のように日常の一部として制服に着替えていた。あの着替えのシーンで本当に後戻りのできない場所へ彼はいってしまったのだと実感して、動揺してしまった。

伝令の青年の反ユダヤの言葉に懐疑的で反感、苛立ちを感じているような態度だった。けれどその言葉そのものは否定せずゆっくりとその通りだと言葉を繰り返していた。

水晶の夜で己の罪悪を目の当たりにした彼は今度は本当に自分は間違っていないのだと自己弁護を行う。ねじ曲がっていると気が付いているのかどうかは定かじゃなく、気が付いても見ないふりをしているのかもしれない。

あくまで本当に普通の人としてのふるまいなのが日常の延長線上にあった出来事として意識して空恐ろしい。

 

物語が始まった時のジョンと終盤のジョンではあまりにも違っているのに、本人はそのことに気が付かず自分は自分であり何も変わりないと思っている。

実際、普通の人であるという点に関しては一貫して変わりがなかったように思う、どんな立場や選択を行ったとしてもそれは普通の人が普通の判断を行っただけだった。

けれどそれがこの惨劇まで連れて行ってしまった。

 

感想をばーと書き出してみたもののやはりばらけてしまってまとまりがない。

ストーリーの本質的な部分や演出や意味まで汲めていない、感想というよりは事実を並べていっただけのようで何も理解していないのではないかと思う…。他の方の感想も見て回って解釈筋トレを続けていきたいものです。

全ての要素に言及を行うと無限に時間が無くなるためここまで。

お粗末様でした。

スリル・ミーを見てきた

実はフォロワーにお勧めされたので見に行っていた。生の劇を久しぶりに見に行ったのですがいい体験だった…。

以下は書きなぐっただけの感想群。

忘備録を兼ねているためネタバレあり。

もとはラインにぽんぽん投げたものなので話がばらばらなのはご了承ください。

あとで丁寧に書き直すかもしれないけどやらないかもしれない。少なくとも文字数は無限に増える。

せめて時系列に丁寧に並べるべきかと思うけれど読むのは自分くらいなのでいいかなと…。そういったものになります。

 

スリル・ミーの感想第一声はたいへん…だった。

あれはたいへんが先に出てくるのも仕方がないのではないだろうか。

舞台沼フォロワーからのおすすめだったのだけれど、そのフォロワーから事前情報抜きで行ってみとのことだったのでその通りにしてみた。

そこで目にしたものは男×男の巨大な感情が殴り愛をしている事前と事後のある破滅までの物語だった。いやーたいへん…大変としか言いようがないのでは?

感情の行き場に困ったのですが。

見直そうにも戯曲も円盤もない…!?今回のCDもおそらく出ない…!?

ということを後から知ったのでそのぐらいは調べてもよかったかもしれなかった。記憶する気合度が違っていた。

とりあえずCDは確保して聞きながらこれを書いている。

 

舞台は一期一会の生ものなのだなといくつかの観劇に行って実感している。その日に見たものはその日にしか存在せず、思ったことも感情もアーカイブを見たとしても完全には蘇らない。

完璧な記憶力があればと苦しみを覚えるつらい。

それはそれとして、海外の原作「Thrill me」には戯曲が存在しており、入手することは可能であり楽譜もついていることを確認したのでそのうち手に入れたい。

シナリオを確認しようと思ったら英語を読む必要がある…フランケンシュタインでも同じようなことをしている…まだ読めてないのですが。いい加減に読みたい。

 

見たのは松岡×山崎コンビの舞台だった。

印象はフランケンシュタイン(NTLive)とリーマン・トリロジー(NTLive)と駆け込み訴えを足して割って、そこにBLをかけて日本の味付けをしサスペンスにパラメータを全振りしたような内容だった。つまりめちゃくちゃ濃い。

 

舞台はシンプルで必要最低限のものだけがある。

真ん中には少し高さのある段がせりあがっている。奥には階段があり少し高い位置にも舞台が続いている。手すりは用意されているが工場のような無機質さを感じた。右上にはピアノが設置してありそこで劇伴が演奏される。

左右には長椅子があるが、装飾はほとんどなく打ちっぱなしのコンクリートのような冷たさを感じた。

舞台上の高低差を利用した演出が各所にあり、舞台のあらゆる箇所が効果的に使われていたように思う。

舞台を書き起こす語彙がなくて絶望では?続けます。

 

観劇後にフォロワーに、

「抱きしめてくれ」と彼に迫り、そのあとの気だるげな雰囲気が完全に事後だった点について気のせいかと問いたら、

気のせいじゃないと言われて大変さの度合いが無限にあがった。

完全にすけべの後の雰囲気であったし、いいんですか…!?そんなことして…!?と動揺していた。

この事後事件の前に彼が私にキスをしてこれが欲しいんだろう?と私の気持ちを弄ぶシーンがあったのですがこの時点でえっ…!?この作品ってそうゆう…!?という動揺をしていたんですよ。初見だったからびっくりしてしまった。(ただし席は遠かったので表情とかまでは見ることができなかった)

 

100分間の歌あり絶叫ありの二人きりの劇で声も枯れず張りを保ったまま一切ミスすることなく完遂して本当にとんでもない舞台だった…。

 

二人の関係は愛による支配と駆け引きだった。

慈しみあう愛ではなく、激しく求めて破滅に向かうタイプの愛。

相手を自分のものにしてすべてを思い通りにするための愛。

相手を手に入れられるのならばすべて失ったってかまわない、その過程で私はスリルを得ることができる。

彼は私を支配下に置き自分の言うことに従うように、そして私が従うことに喜びを覚えていた。

彼は与えるものとしての立場に固執し、与えられるものから与えられることは拒絶する。

ただ現在の私は無辜の少年の命を奪ったことに対し後悔をしている。

 

冒頭の彼に再び出会った私が支配的な態度の彼に惹かれる姿が甘美で退廃的な雰囲気を感じる。

 

ピアノの劇伴が作中の雰囲気を壊さずにその場の空気をまとめているのがとてもよかった。緊張感のある演奏で鋭さもある。

彼の印象としては、自分の賢さに自信を持っているものの繊細で自分は愛されていないという不安定な自我に無理やりニーチェの超人であるという属性を当てはめているように見えた。

私はそんな不安定な彼の危うさに心酔している、支配もそのあとの彼の報酬を思えば甘美であると従っている。

彼の傲慢さや不安定な弱い部分も全て欲しいが、私は彼からの優しさを求めているわけではないという…支配権を奪い合うパワーゲームだった。

 

彼と再会したあとの最初の犯罪である放火のシーンは非常に耽美だった。

ここで二人は取り返しのつかない道を選んでしまったことがわかる。

私は以前と違う成長したのだというシーンで彼に触れてみてくれというが、彼は触ってくださいとお願いしろという。ここで私がしぶしぶと不服そうに彼に触ってくださいとお願いするところで二人のパワーバランスを垣間見ることができてよかった。

彼はお前を支配したいという感情が前面にでており、私は彼にただ支配されるままであることには不満がある。けれど彼から支配を受けること自体には快楽を覚えているよう見えた。

火をつけた次の日に彼のもとへ向かい、不安を彼にぶちまける。支配されるだけの関係は一方的で彼を自分のもとにとどめておくことはできない。彼は自分たちは特別な超人なのだというけれど、私はそれだけでは満足しない。

私は彼に見返りを求めるが、それならば契約をしようと彼は持ちかける。

お互いの要求を叶えて報酬を与え合う関係で対等であるとしようという。これを彼のほうから持ち掛けてきたあたりに彼の自信と傲慢さが垣間見えている。

契約書に血のサインをする時も相手の指は自分で切るが、私には自分の指を切らせない所に、自分は与える側で与えられる側ではない選択権は自分にあるのだという感情が見える。相手を自分の意のままにコントロールしたいのだろう。

与える/受け取る、支配する/支配される、奉仕する/奉仕される、の関係を見たときに最初に思ったのはSMの関係か?だった。自分は与える側なので与えられることを拒否する。

 

CDと舞台を比べると、私はかなり頑固で我が強い。しすて狂気的で妄信的の度合いが強かったように思う。本気で自分がこの世で一番の理解者であり彼の求めることを与えられると信じ込んでいる。そして彼を求めることに全くためらいがなく声の圧が強くてガンガンぶち当たっていくイメージ。

このコンビはお互いにお互いを支配したいという意思が前に出ている。

彼は繊細さとヒステリックな部分や激情家な部分が強くこちらも非常に圧が強かった。

思い込みはかなり強く、自分が超人であるという自認と現実との扱いの違いによる摩擦で苦しんでいるように見えた。

 

子供を誘拐するシーンの猫なで声の話しかけ方や興味の引きかたが本当に誘惑し連れていく手法で最悪!!!!!と叫びそうになった。

真っ暗にした舞台で階段を挟んでふたつの丸い照明をつけることで車のライトを表現しているのはとてもよかった。手袋をはめてから子供の手を取るのがとても恐ろしい暗喩のようにみえた。

歌に関してはなんでそんなに長いロングトーンが出せるの?肺が五個あるの?とびびっていた。どうしてそんな安定して長く歌えるんだ…。

 

CDに収録されていない部分のやり取りも覚えておきたかったけれど覚えている部分

私たちの友情…と話している時に、抱かれて激しく求める関係に対しこれが友情…??と困惑するシーンには私も友情枠で収まらなくないか!?と突っ込みをいれたかった。

現在の私が過去のことを話すときに、あれは五分後のことだった…と言い出した時はずいぶん前のことなのに正確に刻んでるなと思いましたね。

 

彼と私が子供を殺した後にやった!やってしまった!と舞台の上に転がりでたシーンのピアノと歌の張り詰めた緊迫した空気は生の舞台ならではの緊張感ですごくよかった。

やってることは最悪だけども!

そのあとのラジオで彼らのやったことがどんどん暴かれ追い詰められていくシーンも、私が仕組んだことなのだと理解した後に聞くとひどい茶番に見える。

完璧だというけれど様々なぼろがでて犯人がどんどん絞られていくのは滑稽で、けれどどれだけ滑稽でも子供を殺したという事実は重くのしかかっていく。

 

彼は私を見捨て、一人だけ助かろうとするがもちろん私はそんなことを許すことはなく二人とも留置される。

裁判が次の日に迫るが彼は自分たちは死刑の判決を受けるだろう、それはきっと避けられないのだと自覚する。人を殺した事実が彼の超人という虚飾をすべてはぎ取って結果を見ろと見せつけている。

彼が死にたくないと一人独房で狂っているのを、私はどんな気持ちで聞いていたのか。自分の手のひらで彼が苦しんでいるのを笑っていたのだろうか?彼だけでなく私も破滅するのだけれど彼を手に入れられるのならばそれでいいという狂気よ…。

 

人を殺した罪を裁くために人を殺すのか?という弁護で彼と私の死刑を退け99年の懲役に変えた弁護人の姿を見て、彼が自分がなりたかったものをその時理解し、けれどもうすべては手遅れというシーンはとてもよかった。

そのあとの九十九年の歌もすごかった…。

彼を支配していたのは私なのだと、これからはずっと一緒なのだと。

死刑になるかもしれなかったのに?君と死ねるなら別にそれでもよかったのだと答えるシーンは狂気的で私の狂いがみれた。たいへんだよほんと。

 

けれどそんな風に彼を求め手に入れたというのに彼はほかの囚人の手であっさり殺されてしまい、私もそれを深く掘り下げずただ死んだと審議員につたえている。

フォロワーは私の勝利を彼が壊すために死んだのではと言っており、最高だなと思いましたね…私はまだ結論が出ないというよりはどう判断したらいいのかわからない。

ただ私は釈放された後に最後に彼と出会った森(公園?)に再び向かい、彼のもとへ向かったのは間違いないだろうなと。

そして最後の言葉はスリル・ミーだった。牢獄の中ではスリルを得ることはできなかったのかもしれない、そんな私は死というスリルを最後に得たのだろうか。

 

まだ書ききれていない部分があるけれど話のこまごました内容はこのような感じであったように思う。

青年二人がスリルを求めて破滅していく、退廃的で甘美な物語だった。

松岡さんの過去と現在の演じ分けが非常にわかりやすく、これは今、これは過去とすぐにわかる切り替えがすごかった。疲れてしゃがれた年を取った男性の声と、若々しく情熱的で妄信的な青年の声で全然違っていた。この公演のCDがでないとか嘘ですよねと言いたくなる。買わせてほしい。

山崎さんの自信たっぷりなくせに繊細でヒステリックに叫ぶ青年の演技もすごくよかった。突発的に自分の感情が抑えられなくて叫ぶ不安定な青年。とてもいい。

二人の声がすごく安定していて全くぶれない芯の通った歌声だったのにこれ買えないんです?本当に?こんなに音程がとりにくい早口寄りの歌なのに全く音を外さないこの演技が買えないのは…つらい…。

舞台の段差を利用してもともとあった二人の慎重さをさらに際立たせる演出は耽美だった。

段の上から彼が私を包み込むように後ろから抱きしめるシーンとか絵面がとても強い。

 

未熟な青年たちが互いの支配権を奪い合い、スリルを求めて全てを破滅させていく。

危うさに惹かれ魅せられて何もかもを失ったというのに、スリルを与えてくれるものさえ手に入ったのなら全ていいとする。

感想をこねても難しくて全部間違った方向で考えているようで、一回見ただけで理解するのは難しい。

細部ばかりを覚えようとして全体の流れをくむのが下手で、感情を読み取ったりテーマを理解するのがうまくできないので今後はもっとそのあたりをうまくバランスを取りながら観劇できたらなーと思う。

次回の公演が決まったらまた見に行きたい。舞台は舞台で行くのでスリル・ミーは円盤を出してほしいお願いします。

「来世ではちゃんとします」が最高なんですよという話をしたい。

「来世ではちゃんとします」が最高なんですよ。

ゼブラックでこの漫画を毎日一話ずつ読んでいたのだが待ちきれずに単行本を全巻買ってしまった…。

おまけに最近は買いきりでもないのに調子に乗って最新話までレンタルしてしまった。購入後に買い切りじゃないと気が付いたが読んだことに後悔はない。この漫画は面白い。(あとはフォロワーに3巻分送り付けた)

 

ジャンルとしては性愛も取り扱った大人向けの4コマ漫画群像劇ヒューマンドラマ……なのだけど表面的な情報から得られるものよりも遥かに織り込まれた人間模様が描かれているように思う。

この作品の登場人物達は皆、性的に拗らせている。

例えば自己を承認することができずセフレが5人いたり、アセクシャルのため独り身にしかなれなかったり、他人をどろどろに甘やかし依存させるのに恋愛はしなかったり、女性に裏切られるのが嫌で処女しか受け付けなかったり、恋する人をお金で買うためにがむしゃらに働いていたり……。

コメディジャンルであるこの作品では彼らのことは作中では面白おかしく描かれている。けれどコメディだからと言って彼らの生きづらさというものが馬鹿にされることはない。

社会に混ざれない悲しさ、悔しさ、寂しさ、恨み、妬み、マイノリティであることの苦しさを真っ向から向き合っている。

取り扱っているのは性愛で性と愛どちらも欠けることなく、それぞれを美化することもなく、不完全な人間がそれを持っていることを大切にしているようにみえる。

愛に遊びでまたは真剣に向き合い、傷ついて、失ってそれでも求めたり、諦めたりまたは妥協したり。

理想を求めて現実に打ちのめされ摩耗して、絶望して、それでも手の中に残ったものの価値に気が付いたり。

人間関係はどこまで行っても地続きで、人とのかかわりがその人を作っていく。他人に与えた優しさは必ず帰ってくるわけではないが、それが無意味だということは絶対にない。

「来世ではちゃんとします」の物語の中で描かれた人と人の関りは良いことも悪いことも、両方抱えたまま続いていくところが私はとても好きだ。この作品の中では絶対的な善人は存在しておらず、また完全な悪人というものも存在しない。誰もがグラデーションのように善悪を持ち合わせている所の描き方が本当にうまいと思う。

この世界はとても現実に近く、ご都合主義的な優しい展開が起きることはほとんどない。けれどだからこそ作中で描かれる愛や誠実さがとても尊く温かいものに見える。

単行本未収録話のネタバレにはなるのだが、漫画家の登場人物が567(作中の呼び名に合わせている)に罹患し咳をしながらでも創作を続ける回のタイトルが「その努力の累積に神が宿るから」なのがとてもよくて……ほんとうによくて……。

努力を続けることに意味はあり、積み重ねた先に素晴らしいものができる、それはとても大切なことで簡単にできることではない。というのがこの話に詰まっているようでめちゃくちゃぐっときた。本当にこの漫画は最高だと思う。

この世は厳しく、排他的でマイノリティに優しくはない。他人に優しくしたからそれが報われるわけでもない。もちろん酷いことをすれば相応の対応はされる。

そんな世界だが努力をする姿は誰かに評価され、優しい人にはいいことがありますようにと願われ、慕われる。

そういった世界とのバランスのとりかたと綿密に紡がれる人間関係が最高に味わい深い名作漫画だと断言できる。

相変わらずうまいことまとまっていないが練習も兼ねているのでよし!!

面白いからフォロワーはぜひとも読んでほしい!!プリンタニア好きなあなた多分好きだと思いますよ保証はしませんけどね!!

ちなみに0話は無料試し読みがあって作品の雰囲気は0話に詰まっているのでお試しに最適です。

 

ソープ嬢の心ちゃんがすごくいいんですよ…キャラごとに書いてたら無限に文字数が増えていくので全体的なふわっとした文章でおしまいです。

お粗末様でした。

異世界美少女受肉おじさんとの感想

サイコミで連載中の「異世界美少女受肉おじさんと」とは!!幼馴染アラサー後天性性転換(転生?)冒険トンチキファンタジーブコメです!!

字面はふざけきってる出オチですが話の骨子はどのように生きて、選択し、何を選ぶのか?なのでコメディの裏側で情緒をめちゃくちゃにしてくるタイプの漫画です!!吸死と同類!!アニメもあるよ!!

全人類読んでくれ……大丈夫人が死なない話だよ……。めきゃめきゃにはされますが……。

 

主人公の橘はパーフェクト人間の親友の神宮寺と合コンへ参加し、自分がもてないことを嘆きべろんべろんに酔っ払い美少女になりたい…と宣ったところで怪奇LED裸体女(女神)に出会い気がついた時には異世界に転生し超絶美少女になっていた…そして親友は自分が女になったことに切れ散らかしてゲロを履いた…そんなシーンから始まります。胡乱?ずっとこんな調子です大丈夫この粉を吸って。

 

二人は幼いことから友人であり、橘が女になってしまったことで関係が変化していく。この気持ちは女になったからなのか?✕2というもやもや、神宮寺が橘の美少女化に対しぼろくそにいったせいで女神に呪いをかけられ恋のような気持ちが芽生えてしまった…!(未確定)、しかし俺たちは親友同士!!呪いなんかに負けない!!といった困難や衝突が繰り広げられるラブコメです。

1話の時点でラブコメである!!!!と宣言されているので最終的な帰結はラブコメです。約束されたハッピーエンド。

 

お互いが大切であり、その関係を変えたくない。といった気持ちはコメディにもなりシリアスにもなり得ます。ファ美肉おじさんはこのシリアスの混ぜ方がとても上手い。

例えば「なぜ神宮寺はここまで橘を大切にするのか?」「どうして女になったことが吐くほど嫌なのか?」をコメディとして消化するのではなく、互いに対立しあったとき真っ向から真っ直ぐに相手に俺はお前のことをこう思っている!!!!と伝える表現をします。

他人にその大切な気持ちを任せたくない変化させられたくないこれは自分の意志だ勝手に変えるなと、叫んでいる男なんですよ神宮寺ってやつは……。

橘も神宮寺がそういった感情を持つに値する善良さ、優しさ、思いやり、強さを持った人間なのですがなぜもてないのか。おそらく神宮寺と仲が良すぎるからでしょう。トイレに行ったあとハンカチを貸し合う仲は近すぎるんですよ(アニメ1話)。

 

トンチキ極まりないコメディに見えて実は転生はかなり重い話だったりするのですがそこは読んでいけばすぐにたどり着くでしょう。テンション高めコメディでありながら真剣に向き合うべきところはシリアスに締める、けれどラストに愛嬌とお茶目は忘れずない。そんな作品です。最高全人類読んでほしい。

 

現在全8巻で発売中!!!!どうか最新話にたどり着いて吉ナズの良さにやられてくださいお願いします!!!!どんな世界でも希望を信じ光を失わない者とその光に救われる者のペアです!!!!

 

30分縛りで書くには面白さを表現する時間が足りないですね。

私はルシウスさんが好きです。シュバくんとの師弟関係がとても可愛いんですよ。ルシウスさんはプリンタニアの塩野のコンサルの雰囲気がありますよ。

時間があるときにまた感想を書きたい。

 

ガチ恋粘着獣の感想

ガチ恋粘着獣をご存知か?知らない?

でしたら今すぐブログを閉じてマンガほっとをDLし初回特典の閲覧ポイントを使い読めるところまで読んでほしい。

 

私は恋愛の露悪的・生々しい系の話が好みではなくガチ恋粘着獣もタイトルと表紙からその手の話だと判断し避けていたのですが、信頼できるリトマス紙フォロワーが読んでいたのでうっかり読んでしまい最新話まで先読みをしてしまいました。

ちなみに各配信サイトで読めますがピッコマ配信が一番早いです。そして買い切りができます。マンガほっとだと落書きも無料話として収録されています。可愛いぞ。

 

話としては人の恋をとことんまで突き詰めた話でとても面白かった。シナリオでぶん殴ってくるタイプの話だった…。

単行本を買えてないので読み返しがあまりできていないので感想はふわっとしてます。

話をざっくりまとめると、恋の愚かさと醜さとその他諸々の嫌悪感を煽る表現を書き切り、その上で恋とは素晴らしいものである!!!!という宣言をぶち上げるといった内容の作品。

そしてこの醜さと輝きとの対比の描き方が非常にうまい。キャラクターの感情の出し方描き方シナリオ漫画演出などがめちゃくちゃにうまい。

恋とは感情の押し付けであり一方的なものであり押し付けられる側には恐怖があるということを誤魔化さずにかいている。

相手も自分も苦しんでもそれでも恋をやめることができず捨てることができない、あの人を私だけのものにしたい。

そしてその様が獣のように見える。

本当にそのタイトルで良かったんですか??と思うと同時にあぁ、たしかにこのタイトルになるなぁ…と納得させられるそういった説得力のある漫画だった…。

現在のガチ恋粘着獣は、コズミックのスバル編、コスモ編、ギンガ編に話が分かれておりギンガ編が連載中になります。

ギンガ編はミツクリが最高に面白い男なのでおすすめです。

コスモ編は大切にしたい気持ちと獣のような恋がバチバチにせめぎ合っていて最高です。

スバル編はスバひなくゆの三角関係が狂っていて最高なのがあとからじわじわきます。

1巻まではまだよくある話かな?なのですが2巻の終わりまで進むとおっとこれは何かが違うぞ?となるので2巻までばーっと読んでしまうのもありだと思います。私は金槌ゴンゴンするシーンとスタンガンのシーンが好きです。

 

(先読みの話)

ギンガ編は初め読んだとき理想のギンガと一緒にひとりで心中してくれ!!!!!!と叫んだのですが、69話の先読みで駈込み訴えをするなーーー!!!!!!ひとりで心中してくれ!!!!!!に変わりました。あんまり変わってないですね。家も生活も人生のすべてを面倒見ます、俺と現実で暮らそうの下りが本当に駆け込み訴えでした。

駈込み訴えがガチ恋粘着獣にしか見えなくなったんですよどうしてくれるんですかフォロワー。叫びたくなったときは付き合ってくださいね。

 

 

 

 

感想を書き留めておきたい

ブログ作ってる場合じゃないんですがプリンタニアって最高だよなの気持ちが高まったので作りました。

三日坊主になるのでは?なるんじゃないか。なりそうだよね。と思っているし三日坊主実績は山ほどあるんですがやる分にはべつにかまわないのでね!!

プリンタニア以外も読んでいるものはあるのでそれについても書いていきたい。

最近はガチ恋粘着獣がとても面白かったです。

初手で誤字はやめようね(直しました)。